終わりが悲しいのは、そこに“共にいた”実感があるから
M COUNTDOWNのMCユニット「モントッケ」が終わりを迎えたとき、多くのファンはSNSで素直な想いを吐露しました。「寂しい」「涙止まらん」「ずっと3人でいてほしかった」──その言葉たちは、ただの番組を超えた“関係性の記録”として胸に響きます。
なぜ、短い時間だったはずのユニットに、こんなにも感情が揺さぶられたのか。そこには、MCという形式を越えて、ファンが「一緒に育ててきた」と感じられるような“リアルな時間”の共有があったからなのかもしれません。
■ 背景:3人の化学反応が作り出した、静かな絆
「モントッケ」は、ZEROBASEONEのソン・ハンビン、BOYNEXTDOORのジェヒョン、RIIZEのソヒという次世代K-popを担うメンバーによって構成されていました。3人はM COUNTDOWNのMCを務める中で、お互いのグループの活動や成長を見守り、言葉を交わし、ときに笑い合いながら番組を進行してきました。
注目すべきは、「MCとして」ではなく「仲間として」映っていた点です。
あるファンはこう語ります。
「最初はお互い少しぎこちない感じもあったけど、どんどん仲良くなっていくのが伝わってきて、見てるだけで温かくなった」
他にも、
「3人がMCやってる間に、それぞれのグループが1位取れてたんだよね。すごくない?その瞬間を一緒にお祝いしてたのが好きだった」
といった声が複数上がっています。
つまり、モントッケは“番組内での役割”というより、“成長の記録を共有する存在”としてファンの記憶に刻まれたのです。
■ 現象:感情を伴うデジタル接触の深まり
このような「共感の共有」は、K‑popにおいて非常に興味深い文化的現象です。Maynooth大学の社会学者Rebecca Chiyoko King-O’Riainは、欧米のK-popファンがV LIVEのような配信を通じて「感情的な親密さ(digital intimacy)」を感じていることを指摘しています。
彼女の研究では、「リアルタイム性」や「多元的プラットフォームを通じた真正性の確認(corroborated authenticity)」がファンにとっての“信頼できるつながり”を生むとされています。
これと同じように、モントッケというユニットも、「毎週、番組内で少しずつ仲良くなっていく」「自然な笑顔がYouTubeやSNSでも共有される」といった“積み重ね”によってファンとの距離を縮めていったのでしょう。
■ モントッケ的な「感情の蓄積」はなぜ響くのか?
実はこの「感情を重ねる構造」は、K-popにおけるMCや配信だけでなく、学術的にも注目される現象です。
たとえば、Maら(2022年)の研究では、ライブ配信を通じて形成される“共感的愛着”と“持続的忠誠心”が、ファンの行動(グッズ購入や拡散など)に直結するとされました。そして、それらを生み出す鍵が「パラソーシャル・インタラクション(疑似的な一方通行の関わり)」なのです。
──言い換えれば、「こっちを見てくれたような気がする」「毎週一緒に時間を過ごしたような気がする」そうした実感の断片が、心を揺さぶる記憶になる、ということ。
モントッケの場合、3人の立ち位置やテンションの違いが絶妙なバランスで、ファンに「見守る気持ち」と「微笑ましさ」をもたらしていました。
特にRIIZEのソヒが“おしゃべりな2人の間にいてニコニコしてる姿”というのは、ファンの間でもアイコニックな構図として語られています。
■ 類似の光景:終わりが感情を深めることもある
こうした体験は、モントッケに限った話ではありません。たとえば、EXOのD.O.が一時期バラエティ番組で見せていた“静かな存在感”や、SEVENTEENのジョシュアとホシの番組内での“自然体トーク”も、ファンにとっては「MCでの関係性が深まっていく過程そのもの」が宝物になっていたケースです。
また、少女時代のユナが音楽番組で長期MCを務めていた際、後輩とのやりとりを通じて“姉のような温かさ”を育んだのもよく知られています。
MCという立場が単なる進行役にとどまらず、“時間と共感を編む役割”に進化していくのは、K-popならではの現象かもしれません。
■ 関係は終わらない、“記憶の中で成長していく”
モントッケが終わったことは、確かに寂しいことです。でも、それは「関係が途絶えた」ことではなく、「あるひと区切りがついただけ」とも言えるのではないでしょうか。
毎週録画して見ていた人、Xで“えーん”と叫んだ人、YouTubeでMCスペシャルステージを何度も見返した人──それぞれの心のなかで、3人のやりとりは今も優しく続いています。
ファンはただ消費者ではなく、“記憶を編む共犯者”です。
そしてその記憶がある限り、モントッケは「いた」だけでなく、「今もいる」と感じられる──そう信じたくなるのが、人間らしさというものなのかもしれません。